東京大空襲64年

ti19352009-03-10

あの日から64年

首都炎上から64年、いまだにあの日のこと忘れられません。
10日未明北風の強い寒い夜でした。夜半過ぎから2時間に及ぶ下町一帯の絨毯爆撃、焼夷弾雨あられのように降ったのです。人々は火焔地獄から逃げ惑いました。隅田川でも大勢の人が水死しました。橋の上は折り重なる人々の遺骸。頃こげの遺体が累々と横たわっていたそうです。
一晩で10万人もの人が命を落としたのです。従兄弟一家初め親戚6人も犠牲になりました。生まれたばかりの赤ちゃんもい増しました。戦争とはかくも残酷なものです。何の罪のない人が殺されるのですから。幸せも一瞬の内に奪われるのです。
下町を焼き尽くした火は明け方になっても燃え続けていました。それは言葉で言い表せないほどの大火災でした。寒さに震えながらも老いた母と長い時間じっと東の空を見つめていました。
吉祥寺は空襲免れました。三鷹中島飛行機工場を猛爆したからです。井の頭には高射砲の陣地あったのですがほとんど当たりませんでした。一回だけ命中したのを目撃しました。B29は黒煙吐きながら落ちていきました。
初めは昼の空襲が多かったのですがその内にこのような夜も空襲するようになったのです。夜もおちおち眠れませんでした。いつやられるか覚悟は出来ていたのです。次の日の朝無事に迎えられるかわからない日々でした。
今こうして生きていられることが不思議です。もう何日か終戦遅れたら生きてはいられなかったでしょう。
子どもたちにはこの悲劇繰り返してはならないことしっかり語り継いでいきたいです。亡くなった10万人もの人の霊に代わって。早乙女勝元さんや海老名香葉子さんなどこの空襲のこと語りついでいっています。少しでも輪が広がること願っています。
重いブログになってしまいましたがどうしても書き続けていきたかったのです。

春から一転冬に
今日は日中気温上がり都心では17.6度まで上がりました、まさに春の陽気です。夕方には北風強く気温急降下です。明日の朝はまた冷え込みそうです。まだまだ安心は出来ません。寒暖の差が大きいのが子に時期の特徴です。体調管理が必要です。


朝早くから診察です。
7時半には病院に着きました。採血と検査結果を聞くためです。特に異常はありませんでした。コレステロールの値は下がってきました。胸の痛みがあるので心電図とりました。これも前と変わりありませんでした。年ために24時間心電図今つけています。これで何も変化なければまず心配はありません。消化器系の検査受ければ安心です。食後すぐに痛みがあるのは何が原因なんでしょう。それも数分で収まってしまい痛みもそれほどではありません。昼過ぎまでかかりました、明日また行って外してもらいます。

嬉しい電話
今度結婚する教え子から電話がありました。その後連絡なかったのでどうなったのか心配していたのですが新郎新婦とも教え子なので二人揃って挨拶に来てくれるそうです。結婚式は5月に椿山荘で行うというので楽しみです。これが教師冥利に尽きることです。たいした先生でもなかったのに16年経ってこうして招待してくれること嬉しい限りです。花婿、花嫁姿目に浮かぶようです。同じクラスで二組もカップルうまれるなんて始めてのことです。
実はこのクラス担任する前から憂鬱だったのです。その前のクラスは最高で誰からも羨ましがられました。女の先生からももうこんなクラスは作れないでしょうとまで言われました。一人ひとりがみんなのために団結してくれました。学芸会や運動会でも素晴らしい力発揮してくれました。
次に担任するクラスは不登校の子や自閉症の子など問題の子が多かったのです。でも気持ち切り替えてこれは自分の力試すチャンスだと思い精一杯やってだめならしょうがないと覚悟決めました。
始業式の日に不登校の子が出てきてくれたことすごく嬉しかったのです。何とかこの子を救えるものなら救ってあげたいと必死に取り組みました、クラスの子もみんな協力してくれました。本当に気持ちの優しい子たちに恵まれました。彼女が立ち直ってくれたのは私の力でなくクラスみんなの力だったのです。また他の先生方にも協力してもらいました。いろいろ問題抱えている子もみんなの力でよくなってくれました。父母もまた暖かく協力してくれたのです。初めあんなに不安に思っていたクラスからこうして2組ものカップル生まれたこと感慨深いものがあります。
だから今問題抱えてクラス経営に困っている人も誠心誠意尽くしていけば道が開けると言うこと伝えたかったのです。