原爆許すまじ

ti19352006-08-06

原爆許すまじ

ふるさとの街焼かれ
身寄りの骨埋めし 焼け土に
今は白い花咲く
ああ許すまじ 原爆を
三度許すまじ 原爆を
我らの街に

ふるさとの海荒れて
黒き雨 喜びの日はなく
今は 舟に人もなく
嗚呼許すまじ 原爆を
三度許すまじ 原爆を
我らの海へ

ふるさとの空重く
黒き雲 今日も大地覆い
今は 空に陽もささず
嗚呼許すまじ 原爆を
三度許すまじ 原爆を
われらの空に

はらからの絶え間なき
労働に築きあぐ富と幸
今はすべてついえ去らん
嗚呼許すまじ 原爆を
三度許すまじ 原爆を
世界の上に

この歌は原水爆禁止の大会などでよく歌われた歌です。この歌の中に当時の広島の様子が写しだされています。
1945年8月6日8時15分一発の爆弾が広嶋上空で炸裂しました。世にいう原子爆弾です。この瞬間しないは地獄絵と化していったのです。人々は水を求めて川へとただれて垂れ下がった皮膚をひきずりながら急いだのです。多くの人が亡くなりました。被爆してしばらくして亡くなった方も少なくなかったのです。命永らえた人も原爆症のために生涯苦しみました。10万人もの人の命奪った原爆、この悲劇決して忘れてはいけないのです。
eastwaterYさんも被爆され、お父様は亡くなられたそうです。かけがいのない家族を失い、悲しい思いされた方がどれだけ多いことか。東京では広島に新型爆弾が投下されたともっぱらのうわさでした。すごい威力で大勢の方がなくなったことも知りました。空襲も激しくいつ命をなくしても不思議ではなかったのです。食糧難もひどく、もう長くは持たないと子ども心にもわかっていました。日本は負けたのは9日後のことです。あれから61年の年月がたちました。いまは平和な世の中で61年前こんなことがあったなんて若い人には想像もつかないことでしょう。現に若い人に8月6日は何の日と聞いても半数は答えられなかったそうです。平和教育もだんだんやりにくくなっていますし、先生になかにも関心が薄れてきているのです。これは残念なことです。退職したとき、女の先生がもうこれで東京大空襲のこと語ってくれる人がいなくなると残念そうに言っていたのが思い出されます。事実は事実として後世まで語りついでいってほしいです。風化させてはいけないのです。

北海道旅情

食べる
ホテルではこれにオプションで毛蟹がでました。なんとか上手に早くカニ食べるコツを知りたいです。

野生動物との共存
北海道ならではの看板です。知床一胡にたてられていました。くま避けの鈴も売られていました。

蝦夷鹿にも出会いました。家族連れでのんびり過ごしていました。夏毛になって鮮やかな黄色がかった色をしていました。子鹿が可愛かったです。バスの中からなので写真は撮れなかったのが残念です。

北海道で撮った花