65年目の終戦記念日

ti19352010-08-15

65年前のこの日のこと
今でも忘れることのできない65年前の8月15日。
今日のような暑い日で強い日差しが降り注いでいました。
空は青く、白い雲も浮かんでいました。
せみが鳴き、トンボも飛んでいたいつもと変わらない日でした。
変わっているといえばこの日は空襲がなかったことです。
毎日毎晩B29が襲来し爆弾や焼夷弾を落としていたのです。
正午に玉音放送があるというのでみんな近くの学校に集まっていました。
何のことかわからなかったのですが小学4年生の自分にも
この戦争が負け戦だというのはよくわかっていたのです。
広島に新型爆弾が投下され、さらに長崎にも落とされて大きな被害でたこと、
ソ連も宣戦布告してきたこともう四面楚歌だったのです。
これで勝てるわけがありません。
放送聞いた人たちが戦争に負けたといっていました。
これから日本がどうなるのだろうと心配する人もいました。
子供心にこれで空襲がなくなったとほっとしたこと覚えていました。
学校では敵が上陸してきたら最後の一兵まで戦えと教えられていたのです。
1億総玉砕と新聞では書き立てていました。
竹やりでどうして銃に立ち向かえるのでしょう。
子供にだって無理なことわかります。
教育というのは恐ろしいものです。
生きて虜囚の辱めを受けること勿れと教えられていたからです。
玉砕という言葉初めてアッツ島で山崎部隊が玉砕したときに使われました。
1942年のことです。
こどもでも潔ぎよさにかっこいいと思ったくらいです。
本土は沖縄戦みたいになったら被害はどんなに甚大になったことでしょう。
もしこの終戦が遅れていたらもっと原爆の被害も出たでしょう。
吉祥寺もきっと空襲にさらされたに違いないです。
後数日遅れていたらこうして生きていなかったかもしれません。
こうして考えるbと人間の運命ってわからないものだと痛感します。
幸い空襲もまぬかれ一命取り留められました。
戦没者の方に哀悼の念ささげるとともに再びあのような惨禍繰り返してはいけません。
これが生き残ったもののせめてもの勤めです。
子供たちにも戦争の恐ろしさ、おろかさこれからも伝えていきます。



多摩霊園に墓参

息子の車で多摩霊園まで新小金井街道通って行きました。
道路は比較的にすいていました。
霊園もお盆の割にはそれほどの混雑はなかったです。
35度を超える猛暑日になったからさすがにお参りする人少なかったようです。
これでお墓参りはすべて済んだのでほっとしました。