終戦記念日に思う

ti19352006-08-15

終戦より61年
太平洋戦争の終結より早くも61年。310万人にも及ぶ死者を出したこの戦争、時間が経つにつれて風化されようとしている。教育基本法の改悪、憲法の改悪みんな一連の動きなんだ。被爆者に対して政治的な発言を慎むようにと圧力をかけたり、世の中歴史に逆行してきている。本当はブログは楽しく書くもので、あたりさわりのないことばかり書いていればいいのだがこれが性分なんだな。余り余計なこと書かないほうがいいといわれることもある。重々承知の上平和を脅かす動きには歯止めをかけたくなる。これは戦争で尊い命を失った声なき声を代弁したいからだ。戦前の様子に似てきたことに憂慮せざるをえない。これが杞憂であれば幸いだ。
おりもおり小泉首相靖国参拝強行、これは開き直り以外なにものでもない。このニュースでもちきりだ。中国、韓国など近隣諸国との関係悪化は避けられない。なんで反日感情に火に油を注ぐ愚行をあえてしたのだろう。心の問題といっているが、公人と私人を混同している。前に朝日新聞の社説でこのことを痛切に批判していたが、マスコミにもまだ良心が残っていたと安心した。どこの新聞とはいわないが、他の新聞は絶対こういうことは書かないばかりか提灯持ちをしているのが現状だ。
今、NHKで戦争特集をして色々体験談を語ってもらっている。体験のない戦後生まれのひとにも是非聞いてもらいたい。すこしでも戦争がどんなに残酷なものか考えてもらいたい。そして後世に語り継いでもらいたい。そして平和の灯火ともし続けてほしい。これが戦争犠牲者の霊を慰める一番の供養になる。

思えば61年前
1945年8月15日、この日吉祥寺は晴れて暑い日だった。トンボが飛び、蝉も鳴く空襲さえなければ変わらない一日だった。正午にラジオの前に集まるように言われ、天皇陛下のお言葉があると伝えられていた。玉音放送が始まり天皇の肉声を聞いたのは初めてだった。内容は難しくて、当時小学4年には理解ができなかったが、周りの大人が戦争に負けたといっていた。とにかくこれで日ごと、夜ごとの空襲から逃れられると先ずはほっとした。 縮まった黒こげ死体をみては明日は我が身と思っていたんだから、これで助かったと思った。あとはどうなるかなんて考えられなかった。
9月の終わりになって、学校から帰る途中、近所の人からtちゃん,珍しいお客さんが来ているよ。早く帰ってみてごらんと言われ、誰だろうと思って楽しみに帰ったら上の兄が帰って来ていた。無事に帰れてほっとした思いだった。これが白木の箱に入れられてもどったらどんなに悲しいことだろう。続いて下の兄も熊本の連隊から帰ってきた。このとき持ってきた一袋の米どんなにありがたかったことだろう。それぐらい食糧事情は最悪だった。お米のご飯なんてとんでもない。粟とか稗とかとうきびでそれも今だったら鳥でも食べないしろものだった。腹がへったのにはまいったなあ。おかげでみんな栄養失調で骨と皮ばかり、戦争がもう少し長引いたらみんな飢え死にするところだった。それに多摩地区は17日に空襲も予定されていたらしく、どっちにしても早かれ、遅かれ今頃は土の下に眠っていたことだろう。
近くに可愛がってくれた軍人さんがいた。主計大尉で昭和17年に戦病死した故富永ニューギニア派遣軍司令官《陸軍大将)の末の息子さんだった。ちなみに東条首相とは姻戚関係の人だった。終戦から庭で何日もかけて書類を燃やしていた。機密書類だったのだろう。かなりの量だった。おもえば貴重な資料が燃やされてしまったのだろうな。子どもにはわからないことだった。思い出すと書きたいこといっぱいあるけれどまたの機会にしよう。

ゼラニウム
夏の暑さに負けず咲いてくれています。上の写真は白妙菊の花