東京第空襲から61年

東京大空襲のこと
今から61年前、B29爆撃機300機により、東京下町一帯が無差別焼夷弾攻撃により死者10万人、被災者100万人をこえる大惨事、首都炎上の大空襲があった。今でもあの紅蓮の炎、目に焼きついている。あの日北風の強く吹く寒い日だった。こんな日に空襲があったら怖いねと母と話していたら。0時過ぎけたたましい空襲警報のサイレンの音にびっくりして外に出てみたら、頭の上をB29の大編隊が通り過ぎていた。東の空は真っ赤に燃え上がって、朝まで燃え続けていた。すごい大火災だった。あんな火は見たこともない。
この夜2時間半のあいだに約10万人の人が焼け死んだ。向島に住んでいた従兄弟たちも8人焼け死んでしまった。隅田川に飛び込んだ人も大勢亡くなり、橋の上は人の上に人またその上に人と幾重にも折り重なって焼け死んだという。クロこげの死体が累々と横たわる、こんな悲劇絶対に繰り返してはならない。赤ちゃんを背負って逃げた人焼夷弾が直撃して赤ちゃんが燃えたという。防水槽にあかちゃんをさかさにつけて殺してしまった人もいたという。
あのとき、次は自分の番だと覚悟した。明日はわが身と覚悟ができるともう空襲でも避難しなくなった。母が死ぬ時はどこにいても同じというので逃げも隠れもしなかった。防空壕はあっても狭く、生き埋めになる恐れもあったからもうやけになっていた。それでも、学校で空襲になったら井の頭公園に、家だったら逃げるなら善福寺池に逃げようと思っていた。
4月2日と12日には多摩地区も空襲にあった。とくに12日は田無の駅前などかなりの被害があった。そのときに犠牲になった人総持寺に葬られていて。慰霊碑もたてられている。
空中戦もみられた。ていっても日本の戦闘機がB29に体当たりを試みたのだ。当たるまえに打ち落とされてしまった。黒い煙を吐きながらまっさかさまに落ちていく友軍の航空機,一機は木の葉のようにひらひら空中分解していった。高射砲の陣地井の頭公園の御殿場にあったが全くあたらなかった。破片だけが家の近くに落ちていた。子どものころこの破片拾い集めていた。初め空襲は三鷹にあった中島飛行機工場を狙って猛爆をしていった。吉祥寺に住んでいたので真上をあのでかいB29が何機も飛んでいった。
学校で空襲になるとあわてて逃げ帰った。なにしろ命がかかっているからいのちがけで走る。(おかげで100mを11秒台で走れるようになったのは後のこと)途中で敵機来襲。あわてて畑に耳と目を押さえて伏して難をよける。頭の上を機銃の弾がかすめる。パリパリパリという音に聞こえた。近くの洗濯物に小指ほどの穴があいていた。いやあこわかったなあ。いつかは急降下してきたP51の戦闘機のパイロットの顔までみえた。戦闘機の機銃掃射はすごくこわかった。もうたくさんだ。あんな思い絶対にこどもたちに経験させたくない。この思いで教員生活48年を続けてきた。毎年語りついで来た、全校集会で話したことも多い。嘱託になっても6年生に話すことができた。きょうも2年生の子にわかりやすくはなしてあげた。みんな真剣な顔してきてくれた。もう語り継ぐ人も高齢化して、特に学校では体験した人もいなくなってきている。またきな臭いニオイがしてきているだけにこれからの国が心配なのだ。若い人が戦火にまみえないようにしなくては。これが戦没した300万人の人の声なき声を代弁しなくてはならない。

今は平和でいいなあ。食べ物、着るものなどなに不自由ない。いつかまた当時の学校生活について書いて見たい。

寒暖の烈しい月。
今日一日は冷たい雨の一日、春雨にしては少し寒すぎた。植物にとっては恵みの雨だ。桜の開花もはやまるかもしれない。明日はまた暖かくなるという。日替わりの寒暖とは驚いた。これは気をつけないと風邪をひく。油断大敵だなあ。

桜、菜の花、春の花サクラソウ